穴のあいたカーディガン
ふと、編集者時代に出会ったデザイナーさんを思い出した。
恵比寿に事務所を構えていて、雑誌や広告のデザインを手がけている人だった。
当時の私は編集者になったばかり。
普段は自分で簡単なデザイン指示を出すことはあっても、プロのデザイナーさんと直接仕事をする機会はまだ少なかった。
そんなある日、編集長から言われた。
「今度の記事、あのデザイナーさんにお願いしてみたら?」
それだけで緊張した。
事務所に行くなら何か持っていったほうがいいんだろうか。
お菓子?
いや、重いかな。
何が正解かわからない。
以前、同僚がコーヒーを差し入れしていたのを思い出して、私は人生で初めてスターバックスに入った。
サイズもわからない。
メニューもわからない。
とにかく、
「普通のコーヒーください」
そう言った気がする。
そして買ったのは一つだけ。
二つ買ったら一緒に飲むことになるのか。
そんなことまで考えていた。
今思えば不思議だけど、そのくらい緊張していた。
事務所のドアを開けた瞬間のことは今でも覚えている。
ふわっと香りがした。
甘いような、でもどこか和のような香り。
レコード。
ギター。
電球色の照明。
おしゃれなのに居心地が悪くない。
でも私は圧倒されてしまった。
「どうぞ、上がって」
そう言われたのに、
なぜか玄関から動けなかった。
「いや、このままで大丈夫です」
と言った気がする。
今思えば、宅配業者でもないのに。
コーヒーだけ渡して帰ろうとしている。
その時だ。
受け取りに来てくれたデザイナーさんのカーディガンの袖に、小さな穴が空いていた。
黒い薄手のカーディガン。
白いインナー。
パンツはデニムだったか、ベージュだったか。
もう覚えていない。
でも、その穴だけは覚えている。
不思議だった。
穴が空いているのに格好いい。
むしろ、その人らしく見える。
どうしてこんなに自然なんだろう。
20年以上経った今でも、その光景だけは鮮明に残っている。
記事のデザインがどうだったかは、正直あまり覚えていない。
どんな会話をしたのかも曖昧だ。
でも、穴のあいたカーディガンだけは覚えている。
たぶん私はあの日、
デザインそのものよりも、
「その人の生き方」みたいなものに憧れていたんだと思う。